目指せ300日坊主

大学は7年制

バカに政治は語れないのか

高校の公民の時間。高校3年になり、地理歴史に加えて倫理政経を選択することができるようになった。クラス内ヒエラルキーの高いやつらが、尖閣問題について何か言っている。

それは、当時の僕には耐え難い苦痛だった。「バカどもが何か言っている、お前らの意見など無駄でしかないんだからやめればいい」、当時の僕は本気で思っていた。

そこまで言って委員会』や『TVタックル』がお気に入りのテレビ番組で、ニコ生の政治討論などをよく見ていた(時には参加して)17歳の少年にとって、普段政治のことなぞ考えず、授業中にふざけているようなやつら(ここは半分、いやほとんど僕の好き嫌いであるが)に政治がわかってたまるか。ドント式の計算を間違えたり、円高円安の概念が理解できない癖に何粋がっているんだ。その前にEUの変遷を覚えたらどうだ。そんな思いを抱えていた。

ここだけ見るとネトウヨをこじらせたようにしか見えないが、僕自身の中ではネトウヨたちに対しても嫌悪感はあった。政治を語るには学がなければならない、そんな思いに駆られていた僕にとって、学歴も示さずネットで延々と吠え続ける彼らは滑稽でしかなかったからだ。とはいえ、似たような思想だったため、違和感を感じながらも意見を肯定する前提でそういったものを読んでいた。

と同時に、自分の意見にも正当性がないように思えて仕方なかった。僕にとっての政治的正当性とは、学歴による権威づけが必須の条件だった。だからこそ、ある程度自分の中にあった政治的意見は当時なんの意味もなかった。だって高校生だし。しかも田舎の。その上微妙な公立高校の。

だからこそいい大学に行きたかったのだ。きっといい大学に行ければ、自分の中の政治的意見に自身も持てる。ネトウヨ連中や、クラスで政治の話をしてカッコつけていたやつらとの差異をつけることができる。でもそんなことはなかった。

そもそも政治は様々な人間の利害関係の調整にすぎない。政治学科なのにほとんど政治の勉強なんてしていない僕でも、そのくらいは学んだ。人々の意見を調整して行く上で、落とし所を見つける作業そのものである。ならば、絶対的に正しい意見なぞあろうはずがない。高校生の時の僕の基準だった学歴による権威づけが絶対なら、東大法学部の人間だけで政治をすれば絶対に間違うことはない。でも、そんなことは多分ない。そんなことに気づくのにだいぶ時間を食ってしまった。

そもそもそんな思いを抱えてしまったのはクラス内でヒエラルキーが低くて鬱屈していたからな気もする。でもそんな風に思う人は他にもいる気がする。

あの頃があるから、今の大学にいれることを考えると、ある種当時の「熱病」のような症状には感謝せざるを得ない。

その後遺症だろうか、時々「文キャンとか所沢キャンパスのくせに政治語るやつなんなん」と思わないでもない。二回も留年してる僕が、一番政治を語る資格などないのだろうが。